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五年経って、傾斜していく世界の中で

 私はまだ全てをあきらめ切れていない人間であるから、シニシズムに走るようなことはしたくないし、しない。


 状況を変えることが要求されるときには、耳ざわりがよく爽快感も伴うような「ドラスティックな改革」というものが強調される。でも、そんな「改革」は、実質的に見ると変えるべき状況を何も変えていないことがほとんどだ。つまりは、フライパンの上から火の上に逃げ出しただけに過ぎないというようなことが多い。

 よく事態を観察してみるといい。他人の選んだ事実だけをさも自分の意見のように取り入れるのではなく、自分の感触と直観を信じるがいい。そして、常に自分を疑うがいい。
 他人よりも先に自分を疑ってなお信じられる自分の意見を形成するがいい。その上で、なぜ自分と異なる意見を持つ(もしくは同じ意見を持つ)他人がその事実だけを選んで伝えてくるのかを考えるといい。

 歴史は、中学生が好むようにどこかの秘密的排他集団が操る陰謀の下に積み上げられていくのでもなければ、偉大なる何かの織り上げていく予定調和の縦糸と横糸によって紡がれるのでもない。
 歴史は、名もない我々が、名もないことに隠れてのほほんと過ごしていく毎日と日常によって一歩一歩押し進められていくのだ。もちろん、ごく一部の人間の起こすあたかもそのときを象徴するような出来事が耳目に触れる。しかしながら、そのような出来事が起きるに至った背景には何があるのか。人は今あるがままとしてある日突如そこにあるわけではない。

 では、今の「状況」は変えるべきなのか?変えたほうが「より善い」のか?変えたいと望むのか?
 肯定するとしたら、それは可能なのか、不可能なのか?
 可能だとしたら、それはいかにして達成されるべきなのか?  (主語は全て「私」である)



 戦争はなぜ起こるのか?広義の戦争の一部としての「テロ」はなぜ起こるのか?
原因を解決することなく、対症療法として蓋をすることが何につながる?

 そう、対症療法だけをしたい人、ある穴に蓋をかぶせては、他から噴出してくる新たなマグマの噴火口にまた蓋をかぶせて廻るだけにしたい人がいるのは間違いない。
 なぜなら、そうしておいた方が、そうした人たちにとっては「より善い」のだ。例えば、功利主義は、「善」をもたらす母集団を問うことに他ならない。

 しかし、自分がそうした人達とは全く違う者、境界線の向こうとこちらに隔てられている者と捉えることは到底不可能だ。私は、例えば、人口は世界の2%足らずでありながら、世界の水産資源の半分は優に消費する国の人間なのだから。
 もはや、今の狭くなった世界で、自分は綺麗でございますと澄ました顔でいられることなど不可能だ。私の手は直接には血塗られてはいないけれども、私の踏みつけている足元にはたくさんの死体が転がっている。私は、痩せこけて折れ曲がった枯れ木のような人々の上で毎日の宴を繰り返している。



 思春期の男子高校生のようなメンタリティーを持つ人達が大意を形成しているような国がある。自分が殴られることなんてかけらも思い浮かばずに、他人を殴ってまわるような。
 たまたま、ガツンと殴られたからといって、それが何なんだ?あんだけ他人を殴ってまわってたら、殴り返されるのなんか当然だろう。

 と、そんな風に思ったとしても、私の帰属している国家はどれだけ違うことがあるのか?
思春期の男子高校生のような勢いさえもなく、脂ぎった体に欲望だけを詰め込んで我と我が身を痛めつけながら、他の人々を欲望の対象として味わう。
 生活に追われて、薄笑いを浮かべながら、首を横に振ってため息をつくだけの男性。取り繕った笑顔の下に、パニックギリギリの緊張感を持って、そこを突付かれると目を吊り上げて叫びだす女性。
 
 私は、その一部である。
毎年毎年訪れるたびに魚も珊瑚もいなくなっていく海、コンクリートで仕切られて魚一匹いない森の中の小さな流れ、大型店舗に自動車道と全て同じような風景と化していく全国の町、なんて「美しい」国に私は生まれたことか。きっと、「美しさ」はこころの中にあるんだろう。
 それか、「美しさ」の基準が個人の中にしかないことに思いを致すべきか。


 
 しかし、最初に言ったように、私は未だ全てをあきらめきれない者である。
自分が「こちら側」の人間であるからといって、唇をゆがめてマンガを読んでいるというわけにはいかない。マンガで学んだ歴史であっても、そこからもし自分の足で歩き始めたなら何も非難されることはない。もし歩き始めたなら。

 状況を変えるには、絶望的なほどに変わらない状況を認識しつつ、それでも変えたいという希望を持って毎日を生きて行動することから始まる。
 状況を深く理解するほどに強まる絶望感にシニシズムに追いやられることもなく、目をつむって楽しく踊り続けることもないように、中途半端な状態で、それでも希望を持って何か一つを始めることが、もしかしたら状況を変えていくことになる。
 己を撃ち抜いた銃をもって相手を撃ち、己を切り裂いた剣をもって相手も貫けばよい。

 

 ときどき、あまりに己の楽観的なことにあきれるのだけれども。

 
 

by hatezonaki | 2006-09-11 17:33 | 戯言  

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